こんにちは。

渡辺水華です。

若い頃は、意識が外にばかり向かっていました。
そのこと自体は良くも悪くもなく、
そういう時期だったのだと思います。

大きく枝葉を伸ばして成長しようとする
エネルギーがあればどうしても、
意識が外へ向かうものです。

かぶれてみたい時期

特に外国語を学んでいれば、
その言葉が話されている圏内に
足を踏み入れて、視野を広げ、
現地の人々や生の情報に直に触れてみたい。

日本との違いを感じるだけでなく、
その言語が好きだから、
その言語が話されている国にかぶれてもみたい。

私にもそんな時期がありました。
生意気に自国の批判をしてみたり、
他の日本人よりも広い見識を身につけたと思い込み、
自己満足したい心理もあったと思います。

「健康」と「母国語」の共通点

外国語が上手くなりたいとしか思っていないときは、
母国語など特に意識していないことも多々あります。

健康な人にとって、健康はあって当たり前であるように、
日本人にとって、母国語である日本語は
聞けて話せて読めて書けて当たり前。

だから、無意識に使っているし、
改めて見つめ直そうともしない。

そんな私にも外国人に日本語を教える機会がありました。

アメリカに滞在していたときは成人対象、
オーストラリアに滞在していたときは
幼児から小学生が対象でした。

また、日本では小学生から成人を対象に
家庭教師や自宅での英語教室で英語を教えていました。

そして意外にも私には、
日本語を教えることの方が苦痛でした。

なぜなら、私にとって日本語とは、
氣づけば話せていた言語であり、

日本人であるという理由だけで
そう簡単に教えられるものではないからです。

一方、英語は自分が意識して学んだ言語であるため、
日本人が間違えやすいところもわかりますし、
細かい説明も日本語でできます。

なにより「好き」と自覚しながら学んだので楽しめるのです。

ここ数年の間に氣づいたこと

しかし、社内翻訳者として翻訳会社に入社し、
副業で英文添削をしてみると、
和文英文ともに、日本人が書いたさまざまな文章に触れるうち、
徐々に氣づいたことがありました。

バイリンガルでもないかぎり、
日本人の言語の根っこと幹は
母国語である日本語だけであるということです。

英文を読んで理解したような氣になっていても、
母国語力が弱いと日本語として出力したときに、
あり得ない日本語が平気で飛び出してくるのです。

プロの翻訳者でもこのありさまで、
そのあり得ない日本語と毎日のように格闘し、
それを手直しする作業に明け暮れることになります。

では、そのような翻訳者が英文解釈がきっちりできているのかと言えば、
よくよく見ると英語の読解力もそれほど高くないことがわかるのです。

母国語が先か英語が先か…

そう、「鶏が先か卵が先か」という話にもなりますが、
このことは副業の英文添削をしていて感じることでもありました。

日本語文の精度と英文の精度は正比例する。
これが常に私が感じさせられていることです。
(ただし、外国語を学習していない方が
母国語に長けている場合はこの限りではありません。)

幹と枝の関係

私は植物に詳しいわけではありませんが、
あくまでもイメージとして、

日本人の「言語の幹」となっているのが
母国語である日本語で、

外国語を学ぶということは、
その幹に「外国語という枝」を
接ぎ木するようなものであると思うのです。

いくら「枝」を強く育てようとしても、
根っこが腐っていて幹がスカスカだったら、
強い「枝」など育ちようがありません。

土壌も貧弱で養分も与えられずに育った幹に
枝葉を付けてみたところで結果は見えている。

そんなところでしょうか。

このお話は長くなるので、続きはまた別の機会にお話ししましょう。